Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。ぼんやりとした光が天井から降り注ぎ、どこまでも続くように感じられた。僕はEPR97809、コードネームみたいなものだと説明された。年齢は……恐らく28歳くらいだったと思う。なぜなら、死んだのだから。
そう呟いた僕に、優しそうな顔をした看護師が答えた。「ここは死後の世界の療養所です。あなたは魂を癒すために、ここにしばらく滞在していただきます」
転生するとか、天国へ行くとか、そういう話ではなかった。ただ、死んだという事実を受け入れ、心を整理するための場所。それがこの療養所だった。
療養所の建物は、現世とほとんど変わらなかった。個室にはベッドがあり、小さな机と椅子が置かれている。窓からは、見たことのない花が咲き乱れる庭が見えた。
(どうして、こんな場所に……。僕は……何をしたんだろう?)
記憶が曖昧だった。最後に何を見たのか、何を考えていたのか、全く思い出せない。ただ、胸の奥には、拭い去れないほどの孤独感が渦巻いていた。
療養所に到着してからの僕は、ほとんど部屋から出なかった。頭痛がすると言い訳をし、腹痛だと訴え、時折、軽い下痢を装った。誰とも話したくなかったし、何もしたくなかった。死んだのに、まだ苦しまなければならないのか、と絶望していた。
しかし、死後の世界には死後の世界なりの苦しみがあることに気付いた。それは、死にたくても死ねないという残酷な事実だった。
そんな日々が8年も続いた。窓から見える庭の景色は、季節ごとに色を変え、花は咲き、散り、そしてまた咲いた。僕はただ、ベッドに横たわり、過ぎていく時間をぼんやりと眺めているだけだった。
ある春の日、コンコンとドアをノックする音がした。無視しようと思ったが、根気強くノックが続くので、仕方なくドアを開けた。
そこに立っていたのは、成香と名乗る女性だった。柔らかな笑顔を浮かべ、不思議なオーラを放っている。
彼女は強引でもなく、遠慮がちでもなく、ごく自然な口調でそう言った。僕は戸惑いながらも、彼女を部屋に通した。
成香は、僕の部屋を見回し、静かに言った。「あなたはとても辛い思いをされているんですね」
僕は何も言わなかった。彼女の言葉には、すべてを見透かされているような気がした。
突然の質問に、僕は言葉を失った。死んだことすら受け入れられていないのに、死因を聞かれても……。
「無理に話す必要はありません。ただ、あなたは死因を思い出さない限り、前に進むことはできません」
成香は、そう言って立ち上がり、部屋を出て行こうとした。
僕は思わず彼女を呼び止めた。なぜだか分からないが、彼女に何かを話したい、そんな気持ちになった。
その日から、成香は毎日僕の部屋を訪れるようになった。彼女は、僕の話を聞き、ただ静かに寄り添ってくれた。
僕は少しずつ、自分のことを話し始めた。仕事のこと、趣味のこと、そして、ほんの少しだけ、過去の辛い記憶について。
8年間、誰とも話さなかった僕にとって、成香との会話は、まるで暗闇の中に射し込む光のようだった。
ある日、成香は僕に言った。「少し、外に出てみませんか?」
僕は戸惑った。療養所に来てから、一度も外に出たことがなかった。外の世界がどうなっているのか、想像もできなかった。
成香の言葉に励まされ、僕は思い切って部屋を出ることにした。眩しい光が目に飛び込んできた。空は青く、風は暖かかった。
庭には、色とりどりの花が咲き乱れていた。花の香りが鼻をくすぐり、久しぶりに生きた心地がした。
成香は、僕を庭の奥へと案内した。そこには、大きな桜の木が立っていた。満開の桜は、まるで夢のように美しかった。
「この桜は、あなたが死んだ時に植えられたものなんです」
成香は、そう言って桜の木を見上げた。「この桜を見るたびに、あなたは自分が死んだことを思い出し、そして、生きる意味を見つけることができるはずです」
僕は桜の木の下に立ち、そっと幹に触れた。ザラザラとした木の感触が、現実感を帯びて伝わってきた。
初めて、自分が死んだという事実を受け入れることができた。そして、同時に、自分の過去と向き合わなければならないことを悟った。
その日から、僕は積極的にリハビリに取り組むようになった。他の入所者と話したり、庭の手入れをしたり、絵を描いたり、様々なことに挑戦した。
成香との会話も、以前より深くなった。僕は少しずつ、過去の辛い記憶を語り始めた。それは、まるで古傷をえぐるように痛みを伴うものだったが、同時に、心が軽くなっていくような気もした。
「……僕には、妻がいました。優しくて、美しい人でした」
僕は、震える声で語り始めた。「しかし、結婚生活は、決して幸せなものではありませんでした。妻は、次第に僕に暴力を振るうようになったんです」
成香は、何も言わずに僕の話を聞いていた。彼女の静かな眼差しは、僕を優しく包み込んでくれた。
「最初は、口論から始まりました。そして、物を投げつけられるようになり、殴られるようになり……。次第に、暴力はエスカレートしていきました」
僕は、自分の過去を語るうちに、涙が止まらなくなった。「なぜ、僕がこんな目に遭わなければならないんだ、と何度も思いました。何度も死を考えました」
「息子がいました。まだ幼い息子が……僕の生きる希望でした」
僕は、涙を拭いながら言った。「しかし、妻の暴力は、息子にも及ぶようになったんです。それを知った時、僕は……」
言葉が途絶えた。僕は、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
絞り出すような声で、僕はそう言った。成香は、静かに僕の肩に手を置いた。
成香は、そう言って僕を抱きしめた。彼女の温もりを感じながら、僕は声を出して泣いた。
自分がなぜ死んだのかを思い出したことで、僕は新たな苦しみに直面した。息子を残して死んでしまったことへの後悔、妻への憎しみ、そして、何よりも、自分自身の弱さに対する怒り……。
僕は、再び心を閉ざしかけた。しかし、成香は諦めなかった。彼女は毎日僕のそばに寄り添い、僕の心に光を灯し続けた。
そして、ある日、僕は成香に言った。「僕は、息子に会いたい」
成香は、微笑んで答えた。「大丈夫です。きっと会えます」
成香は、療養所の特殊な能力を使って、僕と息子の魂を繋げることに成功した。夢の中で、僕は大人になった息子と再会した。
息子は、僕に向かって泣きながら言った。「父さん……どうして死んでしまったんだ……」
僕は、息子を抱きしめ、言った。「すまなかった。辛い思いをさせてしまったな」
息子は、僕の胸の中で泣き続けた。僕は、息子の背中を撫でながら、静かに言った。「生きろ。絶対に死ぬな。お前は、生きる価値がある」
突然、激しい光が僕たちを包み込んだ。夢が終わろうとしていた。
目が覚めると、僕は療養所のベッドに横たわっていた。夢を見たことは明らかだったが、息子の温もりは、まだ僕の手の中に残っていた。
僕は、窓の外を見た。桜の木は、今年も美しく咲き誇っていた。僕は、桜の木に向かって静かに誓った。「僕は、生きる。過去の死を乗り越えて、生きる意味を見つけるんだ」